金剛山と楠木正成


さて、金剛山といえば楠木正成の名は必ず出てきます。
千早城での戦いは籠城戦が成功した戦いとして有名ですし、そのゲリラ戦法もよく知られています。

私自身も勉強不足でしたので、この辺で楠木正成について短くまとめておいて、お客さんに説明できるようにしておきたいとおもいます。

楠木正成は、鎌倉時代末期に活躍した人物で、
生没は、永仁2年?(1294年? 定かでない)~延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日)とされているので、42歳まで生きたという事でしょうか。

この時代の事は「太平記」により記されているのが大半ですが、結構脚色も多い軍記物語(怨霊の跋扈なども描かれている)として南朝よりに書かれているらしいです。
面白おかしくして観客を沸かせようとするのは、今も昔も変わらない事のように思います。

生まれは千早赤阪村(当時は、河内国石川郡赤坂村)です。
楠木氏は、この地方の豪族であったようです。
悪党などとも言われています。(日本の歴史においては中世に既存支配体系へ対抗した者・階層を悪党と呼んでいるそうです。)

元弘の乱(げんこうのらん)(1331年)で後醍醐天皇の挙兵に応じた楠木正成は、長期戦は無理と判断して下赤坂城に自ら火を掛けて一旦は姿をくらます。
しかし、倒幕運動が沈静化したかに見えた頃、潜伏していた正成は、元弘2年(1332年)、金剛山の千早城で挙兵し、様々なゲリラ戦を駆使しつつ戦いました。(鎧を着せた藁人形を囮として矢を射掛ける、糞尿攻撃を行う etc)
そうして、長期間(90日とも言われる)籠城して鎌倉幕府の大軍をひきつけている間に、各地に倒幕の機運が広がっていったとか。

その後、足利尊氏の離反(後醍醐天皇に冷遇された為などと言われている)により足利氏と敵対する事となります。

正成最後の地となった湊川の戦い直前に、西国街道の桜井(大阪府三島郡島本町桜井)で、息子 正行と今生の別れとなった「桜井の別れ」は、戦前の歴史教科書には必ず載っていた逸話らしいです。能の題目であったり、鉄道唱歌にも歌われているそうです。

そして、湊川で足利直義(足利尊氏の同母弟)に敗れた正成は、弟の正季(まさすえ)と刺し違えて自害したとされています。
このとき正季は「七生報国」(七たび生まれ変わっても、朝敵を滅ぼし、国に報いるの意)を誓っているのだそうで、大変有名な言葉だそうです。すごい執念ですね。

戦死した正成の首は、足利尊氏により丁寧に遺族へ返還されたとされており、その際「むなしくなっても家族はさぞや会いたかろう」と尊氏が述べたとされており、尊氏は清廉な正成に一目置いていたようです。

正成の佩刀であったと伝承される小竜景光(国宝 東京国立博物館蔵 楠公景光とも呼ばれる)は、明治天皇の佩刀となり、明治天皇は大本営が広島に移った時も携えていたとされています。

簡単にまとめると、こんなもんでしょうか。